2024.03.26

犯罪を繰り返した知的障がい者の「やっぱり戻りたい」という言葉 受け入れる支援施設と近隣住民の反対

軽度の知的障がいと自閉症の傾向があるYさんは、過去に逮捕歴があり、2007年には大きな事件を引き起こしてしまいました。

Yさんは障がい者支援施設ゆうとおんに戻りたいと願いましたが、地域の反対や行政の圧力が彼を取り囲んでいました。それでも、彼の心は変わることなく、ゆうとおんに戻りたいという思いで満ちていました。

その思いを受け止めたのは、施設のスタッフでした。彼らはYさんの望みを尊重し、彼を受け入れました。今、彼はゆうとおんで仲間たちと穏やかな日々を過ごしています。事件後、彼を支えるために結成された支援者のグループも、役割を果たし、「発展的に解散」しました。

 

最初の事件

2007年1月、近鉄八尾駅前の歩道橋で、クッキーを販売していた男が、突然3歳の男の子を抱きかかえ、地面に落としました。その男がYさんでした。男の子は一命を取り留めましたが、重傷を負い、後遺症が残りました。

知的障がい者による事件は、近年多くの報道がなされています。2001年4月のレッサーパンダ事件などがその一例です。これらの出来事は社会において議論を巻き起こし、人々の心に深く刻まれました。

それでも、Yさんのような人々に対する理解と支援が必要です。彼らは特別な配慮と支援を必要としながらも、社会の一員として尊重されるべきです。彼らの望みを尊重し、彼らが尊厳を持って生きることができるよう、私たちの社会は更なる努力を払う必要があります。

 

触法障がい者、累犯障がい者

法を犯す障がい者は一般的に“触法障がい者”と呼ばれ、中でも犯罪を繰り返す人々は“累犯障がい者”とされています。彼らの刑務所での実態は、元衆院議員の山本譲司氏の著書で詳しくクローズアップされました。

ゆうとおんの名前は「You(r) tone」に由来しています。この施設は、八尾市の職員だった畑健次郎さんと土橋恵子さんが1996年に設立した授産施設で、その後、社会福祉法人として発展しました。彼らはどのような人であっても属性で判断せず、本人が望むなら受け入れるという理念を貫いています。

利用者と支援者を分け隔てない「ともに生きる」支援で知られ、障がいの重度な人から軽度な人、さまざまな事情を抱えた利用者が集まっています。

 

「八尾事件を考える会」

事件後、テレビで畑さんが責任を取る姿が放送され、それを見た障がい福祉の関係者らが「八尾事件を考える会」を立ち上げました。この会は、同様のリスクのある人々を支援し、地域社会での生活を支援することを目指しています。彼らは月に1度のペースで会合を開き、裁判の傍聴や面会支援などの活動を行っています。

取り調べでYさんが語ったところによれば、彼の犯行の動機は「大きな事件を起こせば、ゆうとおんに戻らなくて済む」というものでした。彼は比較的障がいが軽く、利用者の中でリーダー的存在でしたが、当時は1人の女性利用者との関係に悩み、その問題を解決できませんでした。2008年12月の大阪地裁判決では、彼の心神耗弱が認められつつも、懲役5年6月が言い渡されました。

 

時には支援者のような振る舞い

Yさんがゆうとおんにやってきたのは1999年でした。それまで彼は府立の施設に入所していましたが、無断外出や子どもの連れ去り事件を起こしたことで、施設側は彼を放り出すことを決断しました。家族は途方に暮れ、地域の障がい者施設であるゆうとおんに連絡し、彼を引き受けてもらうことになりました。

Yさんは優しい性格で、冗談を言って周りを笑わせる気さくな人でした。しかし、彼にはきちょうめんで融通が利かない一面があり、ルールや決まり事に厳格で、それを守れない人に対しては我慢ができなくなることもありました。彼は利用者の中で多くのことができるため、時には支援者のような振る舞いも見せることがありました。

幼い頃に両親が離婚し、双方を行ったり来たりする不安定な生活を送りました。学校では同級生からのいじめに苦しんだり、初めての就職先で激しいいじめに遭ったりと、彼の人生は困難な道のりでした。

 

本当の意味での反省が伝わらない

同年代や成人相手ではなかなか対等な関係を築けないため、彼は小さな子どもに興味を持ち、保護者の目を盗んで子どもを連れ出す行動が増えていきました。

しばらく子どもと遊んでいると、彼は子どもが泣き出すとどう対処すれば良いか分からなくなり、時には暴力を振るうこともありました。このような行動が彼を逮捕することもありました。

幼児の連れ去り行為は、ゆうとおんに入所してからも続きました。しかし、畑さんや土橋さんは彼を見捨てませんでした。彼らは「分けない、切らない、共に」という信念を持ち続け、Yさんも彼らに深い信頼を寄せていました。

Yさんは刑期を終え、社会に戻る際、「再犯しないこと」が最も重要な約束事とされることを理解していました。しかし知的障がいのため、自らの行動の動機をうまく言葉で表現することが難しく、また、事件に対する反省もまだ消化しきれていない状況でした。

彼はいつも謝罪や反省の言葉を繰り返しながらも、その表面的な態度から、本当の意味での反省が伝わりにくいことを自覚していました。

 

2年間の生活訓練

出所後、直接ゆうとおんに戻ることは許可されませんでした。そのため、彼は府立の入所施設で2年間の生活訓練を受けることになりました。この期間中、彼は閉ざされた人間関係の中で規則正しい生活を送り、アンガーマネジメントやソーシャルスキルトレーニングなどのプログラムに参加しました。

これらの取り組みは、彼の認知と行動の変化を促し、再び犯罪を誘発しない生活環境へと調整するためのものでした。また、ゆうとおんや関係者は、彼が過度に規範意識にとらわれないように心配しました。

行政や専門家から再犯を防ぐため強い圧力

事件から8年後の2015年5月、Yさんはゆうとおんに戻りました。しかし、ゆうとおんは触法障がい者への対応に関して「素人集団」と見なされ、行政や専門家から再犯を防ぐための強い圧力を受けていました。Yさん自身も、失敗を許されないというプレッシャーの中で、再び地域生活を始めることに恐れを感じていました。

Yさんにトラブルや混乱を引き起こさせないため、分かりやすい生活を提供するために、利用者と職員の役割分担を徹底しました。逸脱行為があると、職員は「ここからは職員の仕事なのでタッチしないで」と厳しく指摘しました。

また、日中の活動や夜間の見守りにはそれぞれキーパーソンを配置し、彼の行動を細かくチェックしました。毎週末には、面談者が一対一で彼の生活を振り返り、心の状態を探る時間を設けました。

 

管理的な対応に強い緊張とストレス

しかし、これらの管理的な対応はYさんに強い緊張とストレスを与えました。普段から飲んでいる薬を忘れてしまった際には、彼は自分を責め、「なぜこんな失敗をしてしまったのだろう」と悩みました。その結果、パニックに陥り、職員を殴り、鼻の骨を折るけがを負わせる事態となりました。

行政サイドも「再犯の恐れがある」として、ますます態度を硬化させました。精神科入院を経てゆうとおんに戻る際には、支援者は厳しい警告を行いました。「もし次に何かあれば、ゆうとおんには留まれない。地域での生活も難しくなるだろう」との言葉でした。

その後の支援は監視的なものとなり、彼の行動を細かく制限しました。グループホームでは、彼が生活する上で当然のことを自らで行うことが拒否されました。そして次には、冷蔵庫を開けることすら許可されず、彼は混乱し、パニックに陥りました。

 

不穏な行動がますます悪化

Yさんの不穏な行動は収まるどころか、ますます悪化し、その2カ月後には大きな事件を引き起こしてしまいました。それは2016年3月の出来事でした。

日中、突然施設を飛び出し、近くのバス停から路線バスに乗り込んで、前に座る高齢女性の首を絞めるという事件が起きました。幸いなことにケガは軽傷で済みましたが、彼は殺人未遂罪で逮捕されました(後に傷害罪で起訴)。

この事件の一報を受けたゆうとおんや考える会のメンバーは、積み上げてきたものがすべて崩れ去ったショックと無力感で絶望しました。彼がゆうとおんに戻ってきてからもうすぐ1年を迎えようとしていました。

 

諦めずに彼を支える支援者たち

このような事態は、彼にはもう地域生活が無理ではないかと思わせるものでした。しかし、支援者らは諦めずに彼を支えました。公判では、ゆうとおんは彼が出所後も再び受け入れる用意があるとする更生支援計画書を提出し、採用されました。そして判決は懲役1年2カ月となりました。

一方で、再犯防止を第一に掲げる行政や刑務所側、触法の専門家たちは、「再犯を許した」ゆうとおんの支援力に見切りをつけました。彼らは服役後に生活する場所が見つからない障がい者らが対象になる「特別調整」の制度に乗せ、ゆうとおんとは別の受け入れ先を探し始めました。そしてゆうとおんや考える会のメンバーは、刑務所でのYさんとの面会を拒否されました。

 

荒れて暴力行為を繰り返す

Yさんは閉ざされた環境で「あなたはゆうとおんと別のところで暮らしたほうがよい」と説得され、動揺していました。再び犯罪をしてしまった自分に対してすっかり自信を失い、「僕もその方がいいと思う。他のところでがんばろうと思う」と手紙でゆうとおんに伝えてきました。しかし、本音では彼は納得していませんでした。この頃から刑務所内でのトラブルが増え、懲罰を繰り返し受けるようになっていました。

結局、満期出所後も受け入れ先が見つからず、Yさんは一度精神科に入院しました。しかし、病院内でも彼は荒れて暴力行為を繰り返しました。このような状況を「本人の粗暴性が顕わになっている」と評価する関係者もいました。

しかし、Yさんに寄り添って考えると、彼がゆうとおんに戻りたいという気持ちと裏腹に、自分の望まない生活を強いられていることが「納得がいかないこと」の行動化につながっていることは明らかでした。

 

弁護士の介入により行政側が対応を変える

Yさんの再びゆうとおんに戻るための闘いは、人権問題として浮かび上がりました。弁護士の介入により、行政側が対応を変え、最終的にYさんをゆうとおんに戻すことが決まりました。

Yさんが再び地域生活に戻ってから6年以上が経過しました。ゆうとおんでは、前回の失敗を踏まえ、細かいルール設定を廃止しました。彼のために小さなユニットの作業場を設け、彼の支援の決定は彼なしで行われないようにしました。週に1回のチーム会議では、本人も交えて生活を振り返り、危機時の対応を含めたクライシスプランを共同で作成しました。

 

周囲との関係を築きながら落ち着いた生活を送っている

現在のYさんは50代という年齢もあり、抗精神病薬の影響で体力が落ち、歩行や作業のスピードが遅くなっています。

Yさんの生活様式は、新型コロナウイルスの流行を経ても変わらず、常に時間通りに行動します。彼の丁寧な生活やルーティンは、支援者らにとっても驚きの種であり、再犯を否定することはできませんが、周囲との関係を築きながら落ち着いた生活を送っている姿を見て、「今度こそ」という期待が生まれています。

2023年11月末には考える会が解散し、その日に集まったYさんは、長年支えてくれた人々から祝福を受けました。彼は深く反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓い、支援者らの見守りを求めました。

ゆうとおんと考える会は、山あり谷ありの四半世紀を共に過ごし、何が起きるか分からない不確実な状況に耐えながらも、最後には希望を見つけました。「終わりよければ、それもよし」。解散した会のメンバーらが気に入っているフレーズです。

まとめ

Yさんは再犯歴を抱えながらも、ゆうとおんの支援で地域生活に向かいます。支援者らは彼の希望を尊重し、成長を見守ります。再犯防止は容易でなかったが、彼の意思が尊重され、地域生活が再開されました。ゆうとおんの支援が彼の自信を取り戻し、新たな未来への道を開いています。

 

参考

犯罪を繰り返した58歳の知的障がい者が「ぼく、やっぱり戻りたい」と語る支援施設 近隣は反対、行政は圧力…それでも受け入れ続けた | 2024/3/21 - 47NEWS

関連情報

みんなの障がいへ掲載希望の⽅

みんなの障がいについて、詳しく知りたい方は、
まずはお気軽に資料請求・ご連絡ください。

施設掲載に関するご案内