2024.04.18

「非正規雇用」の現実 年収1500万が中途障がいで暗転 障がい者雇用の現状と挑戦

障がい者の雇用は、一定数以上の従業員を抱える事業主にとって義務です。法定雇用率は、全従業員のうち身体や知的、精神障がい者の割合を示し、今年4月には2.3%から2.5%に引き上げられました。

これは、40人の従業員のうち1人が障がい者であることを意味します。そして、2026年には2.7%にさらに引き上げられる予定です。しかし、現状でも従来の2.3%でさえ、達成率は約50%にとどまります。達成できない場合は、納付金の支払いや行政指導、企業名の公表などのペナルティが課されますが、これらが改善に繋がるかは不透明です。

 

突然身体障がい者になってしまう

突然の障がいで職を失った濱田靖さん(58歳)は、神奈川県茅ヶ崎市に暮らしています。彼は肢体不自由で、身体障がい者手帳2級を所持しています。右半身がマヒしており、上肢は親指と人さし指しか動かせず、下肢はひざから下の感覚がほとんどありません。

彼の障がいは2004年9月に発生しました。茅ヶ崎市の病院で健康診断を受けている最中に、採血中に意識を失いました。目が覚めると、全身の筋肉が硬直しており、動けませんでした。妻に迎えに来てもらい、借りた車いすに乗って帰宅しましたが、玄関で再び昏倒し、翌朝まで意識が戻りませんでした。

 

「働く中で一番つらい」

濱田さんは療養のために実家がある佐賀県へ帰省し、医師から脳に小さな梗塞のような痕跡がたくさんあると告げられました。さらに、頸椎や脊髄の損傷も発覚しました。約1カ月半の入院と懸命なリハビリの末、杖をつけば歩けるまで回復しましたが、医療事故を主張しても健康診断を実施した病院側から認められず、民事訴訟でも敗訴に終わりました。

彼は自らの経験から、「ただ障がい者というだけで、周囲から『何もできない人』と見なされる。それが働く中で一番つらい」と語ります。

 

身体障がい者となってから一変

濱田さんはそれまで、特に大病を患った経験はありませんでした。高校卒業後、難関大学の受験で2年間浪人しましたが、合格せずに就職しました。何度か転職を経験し、30歳の時には接着剤や塗料を開発するベンチャー企業の立ち上げに携わりました。少人数だったため、営業や施工、新製品の研究など、多岐にわたる業務をこなしました。

激務と引き換えに事業は軌道に乗り、ピーク時の年収は約1500万円に達したといいます。しかし、経済的に恵まれた生活環境は、身体障がい者となってから一変しました。勤め先に事情を説明すると、すぐにリストラされ、退職金も出ず、生活のために貯金を切り崩す毎日を送りました。佐賀では障がい者向けの求人が少なかったため、神奈川の自宅へ戻り、ハローワークに通いました。

 

「何か自分にもできる仕事があるはず」

「体が不自由になったとはいえ、頭はハッキリしている。何か自分にもできる仕事があるはず、という思いが心の支えだった」と濱田さんは語ります。しかし、新しい職場は見つかりませんでした。企業が優先的に雇いたがるのは、受け入れが容易な軽度の障がい者であり、症状が比較的重い濱田さんはなかなか採用に至りませんでした。

 

「自分は誰からも必要とされていない」

8年間で4社を渡り歩いた濱田さんの人生は、困難と挑戦に満ちたものでした。彼は半年ほど経った頃に「自分は誰からも必要とされていない」と感じ、心が折れました。精神科を受診すると、重度の鬱病と診断されました。飼い犬に癒やされながらも、立ち直るまでには時間がかかりました。その間、約10年間もの間、働くことができずに無収入の状態が続きました。

妻は濱田さんの介護のために仕事を辞め、パートタイマーとして働いていました。しかし、その収入だけでは家計を支えきれず、貯金も底をついてしまいました。再びハローワークに通い始めると、障がい者向けの合同面接会への参加を勧められました。

 

働き口は以前よりも見つけやすくなっていたが…

ここから、濱田さんの「流浪」が始まりました。2015年から8年間で4回の離職を経験しました。これらの会社はすべて大企業であり、障がい者の法定雇用率が上がり、企業の社会的責任(CSR)を重視する風潮が高まったため、働き口は以前よりも見つけやすくなっていました。

しかし、どの会社でも待遇はパートか契約社員であり、月給は低く、仕事に満足できない状況でした。彼が入社した最初の会社では、コールセンターのオペレーターとして採用されましたが、ただ法定枠を埋めるための数合わせに過ぎず、満足に仕事を与えられない状況でした。

 

障がいへの無理解

濱田さんが「ちゃんと働きたい」と訴えると、ようやく業務が割り振られました。しかし、障がいへの無理解も感じました。例えば、大量の書類を運ぶように指示されても、濱田さんはそれを持つことができませんでした。「できない」と言うと、「業務をより好みしている」と受け止められてしまいました。心理的に落ち込み、約3カ月で退職しました。

 

急な欠勤を認めてくれる職場でなければ働くことが難しい

かつての経験を生かそうと、営業職の求人を探しました。しかし、障がい者枠では求人が見つからず、一般枠での応募も考えましたが、それでは障がいへの合理的配慮を受けられなくなる懸念がありました。濱田さんは低気圧の日に体調を崩しやすく、通院が必要でした。急な欠勤を認めてくれる職場でなければ、働くことが難しいのです。

結局、事務職で貿易やコンサルなどの会社を転々としました。しかし、この間の年間最高収入は約260万円にとどまりました。濱田さんは「戦力になれる自信はあったのに、社会は中途障がい者に冷たいなと感じた」と振り返ります。

 

やりがいを感じた職場の一つ

濱田さんがやりがいを感じた職場の一つは、種苗メーカーのサカタのタネでした。2016年から3年間、契約社員として在籍し、造園を担当する部署に配属されました。当時の上司である富張公章さんは、最初はどう接したらいいのかわからず、トラブルを避けるために簡単な作業ばかりを頼んでいました。

 

お互いの本音をぶつけ合う

しかし、濱田さんもフラストレーションを感じており、怒りっぽくなり、部署内で腫れ物のように扱われていました。転機となったのは、2人で酒を飲みに行った際に、濱田さんが「障がい者でも働ける。自分の価値を認めてほしい」と直談判したことです。

富張さんは「それなら会社に『欲しい』と思われる人材にならなきゃいけない」と返答し、お互いの本音をぶつけ合いました。その結果、富張さんは濱田さんの半生や悔しさを知り、彼のポテンシャルを認めることになりました。

 

独学でPCスキルを学び同僚からの信頼も得ていく

部署内では各々が自分の案件を管理しており、全体の進捗状況を俯瞰する手段がなかったため、濱田さんはエクセルで工程を管理する表を作成しました。これにより、部内の全員が情報を共有し、進捗状況を一元化することができるようになりました。このような協力体制の下で、濱田さんは自らの価値を発揮し、やりがいを感じることができました。

濱田さんは独学でPCスキルを学び、行政機関の報酬基準などを基に、造園工事の見積もり額を自動で算定するシステムを構築しました。これにより、部署にとってなくてはならない戦力となりました。「精神的にも安定したのか、とっつきにくさが減った。同僚からの信頼も徐々に得ていた」と富張氏は語ります。

 

パソコンの操作に健常者よりも時間を要した

濱田さんは障がいのため、パソコンの操作に健常者よりも時間を要しました。最初は「仕事が遅い」と不満を募らせる社員もいましたが、コミュニケーションが深まるにつれて、文句を言う人はいなくなりました。周囲が彼の特性を理解し、それを受け入れたことで、チーム全体が協力し合う雰囲気が生まれました。

富張氏は、「濱田さんは今も仲間だと思っている。相手の状況を知り、立場に沿って対応を考える大切さを学んだ。健常者だろうと障がい者だろうと、その重要性は変わらない。部下と接するうえで、共に働いた経験はずっと役立っている」と語ります。

 

「障がい者になった後、初めて自分を認めてくれた」

会社側も濱田さんを評価し、雇用契約の無期転換を提示しました。しかし、分社化に伴う事業再編で決まりかけていた昇給が白紙となり、条件面で折り合わずに退社することになりました。それでも濱田さんは「障がい者になった後、初めて自分を認めてくれた」と深く感謝しています。

濱田さんは2018年、早稲田大学人間科学部のeスクールに入学し、福祉工学のゼミで障がい者の労働環境の改善方法を研究しました。亡くなった母親の遺産を学費に充て、終業後や休日に受講を進めながら少しずつ単位を取得しました。2023年3月には卒論を提出し、今年3月に卒業しました。

 

誰の身にも起こりうる

現在は月に4~5件ほど採用面接を受けていますが、まだ就職先は見つかっていません。しかし、これまでの経験や大学で得た知識を活かし、企業と障がい者を仲立ちするような事業を始める構想を練っています。また、障がい当事者の目線から働きやすい職場環境を説く講演活動にも取り組みたいと考えています。

濱田さんは自身が障がい者になるとは夢にも思っていなかったことから、誰の身にも起こりうるということを強調します。彼は障がいを持つ労働者が特別扱いされず、「やればできる」という可能性を広く認められる社会を目指しています。

肢体障がいについて

肢体障がいは、身体の一部の機能や構造が制限されたり、欠損したりしている状態を指します。この障がいは、生まれつきのものや後天的なもの、事故や疾病によって引き起こされることがあります。肢体障がいは、手や腕、足、またはその他の身体の部位に影響を及ぼすことがあります。

肢体障がいにはさまざまな種類があります。その例としては以下が挙げられます。

 

  • 四肢麻痺(四肢まひ): 脳や脊髄の損傷によって引き起こされることがあります。この状態では、手や腕、足などの四肢の一部または全部の運動や感覚が制限されます。

 

  • 先天性肢体障がい: 出生時に身体の発達に問題があり、手や足が不完全な形で生まれることがあります。例えば、先天性四肢欠損症や先天性脊椎側弯症などがあります。

 

  • 後天性肢体障がい: 事故、疾病、または外傷などによって後から肢体の機能が制限されることがあります。交通事故やスポーツのケガによる骨折、または糖尿病による末梢神経障がいなどが含まれます。

 

  • 筋肉や骨の障がい: 筋ジストロフィーや関節炎など、筋肉や骨に影響を与える疾患も肢体障がいの一形態です。

 

影響と支援

肢体障がいは、日常生活や職場での活動に大きな影響を及ぼす場合があります。障がいの程度によって異なりますが、運動能力や日常生活動作、またはコミュニケーション能力に支障をきたすことがあります。

しかし、技術の進歩や社会の理解の向上により、肢体障がい者へのサポートや支援が増えています。リハビリテーションや物理療法、義肢や補助具の利用などがその一例です。また、法律によって障がい者の権利が保護され、差別や偏見のない社会を目指す取り組みも行われています。

 

障がい者に対する配慮や合理的配慮

さらに、職場や学校などの環境においても、障がい者に対する配慮や合理的配慮が求められています。障がいを持つ個人が自己実現や社会参加を果たすための支援が重要であり、そのためには包括的なアプローチが必要です。

肢体障がいは個々の能力や生活への影響が異なりますが、社会が包摂的で理解のある支援を提供することで、障がい者も自己実現を果たし、充実した生活を送ることが可能です。そのためには、医療や教育、雇用などの分野での取り組みが不可欠です。

まとめ

濱田靖さんの人生は、突然の障がいという壁にぶつかりましたが、その壁を乗り越えてきました。彼は数々の挑戦と苦難を経ても諦めず、自らの価値を示すために努力し続けました。その姿勢は、彼が障がい者としてだけでなく、人としても尊敬される存在となった理由です。彼の物語は、困難に直面しても希望を持ち続け、自らの可能性を信じることの大切さを教えてくれます。

 

参考

年収1500万が中途障がいで暗転「非正規雇用」の現実 #東洋経済オンライン @Toyokeizai

関連情報

みんなの障がいへ掲載希望の⽅

みんなの障がいについて、詳しく知りたい方は、
まずはお気軽に資料請求・ご連絡ください。

施設掲載に関するご案内