2024.03.08

プールで首を折る事故に遭い「最重症障がい者」になった男性が、歯科医と大学教授になるまで

盆唐(ブンダン)ソウル大学病院の李ギュファン教授(45)が歯科医としての道を歩み始めたのは、決して平坦なものではありませんでした。

彼の障がいが、それぞれのステップを取るたびに彼の前に立ちはだかりました。しかし、彼は不屈の精神を持ち、困難に立ち向かう決意を貫きました。

本記事では重度の障がい者になった李ギュファンさんがどのように歯科医から大学教授になったのかご紹介します。

 

自信も誇りもある瞬間に崩れ去る

彼の人生は、召命意識や運命論とは無縁でした。彼は卒業後に金持ちになり、贅沢な生活を送ることを夢見ていました。

しかし、その自信と誇りも、ある瞬間に崩れ去りました。彼の命は文字通り折れました。彼が歯科大学の3年生だった2002年の夏、友人と一緒にプールに行った際に、ダイビング中に首を折ってしまったのです。

医学的に説明すると、頚椎の3、4、5、6番が損傷し、四肢の麻痺や呼吸の困難を引き起こしました。彼は集中治療室で一週間を意識不明の状態で過ごしました。

彼は泣きながら神に祈りました。「神様、私を立たせてください」と。しかし、奇跡は訪れませんでした。

 

やがて絶望へと変わる

彼の懇願は、やがて絶望へと変わりました。「どうか私を連れて行ってください」と。彼は自分の舌を強く噛み、血を流しましたが、それでも痛みは消えませんでした。

彼は一日中、自分の命の数値が上下するのを見ながら、他の患者たちが死にゆく姿を目の当たりにしました。その光景は彼を苦しめ、彼は自分が同じ運命を辿ることを恐れました。

彼は踏ん張ることではなく、状況に身を任せました。彼は自らの死すらも選べなかったのです。

 

集中治療室での孤独な日々

集中治療室での孤独な日々は耐え難いものでした。短い時間でしたが家族との面会は許可され僅かでも心は救われました。しかし、それ以外の時間はほとんどが一人きりで、天井だけを見つめて過ごさなければなりませんでした。

彼はそれを耐え難く感じ、看護師たちに読み物を持ってきてほしいと頼みました。精神は折れていなかった彼は、自分と同じように四肢麻痺となった若い患者たちのためにも、肯定的な文章を読みたかったのです。

そのため、彼は順番に雑誌や新聞記事を広げて、希望を見つけようとしました。時には漫画やマンガも持ち込まれ、彼の日々を少しでも明るくする手助けとなりました。

 

徐々に希望が芽生える

このような日々の中で、彼の心には徐々に希望が芽生えました。彼は明日死んでもやりたいことがあり、それは歯科医になることでした。彼はどんなに絶望的な状況でも、努力することで自分の夢を追い求めたいと思いました。すべてが不可能だと言われても、彼は立ち向かう覚悟を持ちました。そして、彼は檀国大学病院からソウル大学病院の集中治療室を出ることができた後、母親と兄に支えられて学校に戻りました。

 

中には彼を拒絶する教授も

全ての教授の研究室のドアをノックしましたが、中には彼を拒絶する教授もいました。しかし、彼は希望を捨てずに立ち上がり、彼らに自分の可能性を示すことを決意しました。彼は厳しい言葉や困惑する態度にもめげず、自らの夢を追い求める決意を貫きました。

 

たった一人の教授が彼を勇気づける

彼の挑戦の中で、たった一人の教授が彼を勇気づけました。それは、今は亡くなったシン・スンチョル学長でした。

彼は「君がこんなにもやりたがっているのに、なぜ転科したり退学させたりできようか。学生が勉強したければ当然できるようにするのが教授の仕事だ。助けることはできないが、するなということはわたしの辞書にはない。途中でやめたとしても、とりあえずやってみようじゃないか」と言いました。

 

「やり遂げる姿をお見せします」

彼はシン教授に対し、拒否されたことに意地を感じつつも、感謝の気持ちを述べました。「私、このままでは死にそうです。本当に死ぬ気でやり遂げる姿をお見せします」と。

しかし、危機は彼を待っていました。彼の床ずれは悪化し、膿んでいました。

医師は手術を勧め、「このままでは足を切断する以上に、死ぬこともありうる」と警告しました。手術は回復まで少なくとも3か月はかかる大きなものでしたが、彼はそれを拒否し、勉強を続けることを選びました。

彼はまた、休学することで学校に戻れなくなるのではないかという不安を感じ、ひとまず夏休みまで待つことにしました。車椅子で気絶しながらも、彼は踏ん張り続けました。

 

死の淵を何度も経験

彼は床ずれや敗血症といった死の淵を何度も経験しました。そして、何人かの教授が彼の診療や実習、講義に近づくことすらも妨げました。しかし、彼は一つの方法を見つけました。それは、熱心に努力することだけでした。

 

周囲の助け

彼の四肢の麻痺は依然として残っていましたが、彼は器具を手に結んで「怪物の手」を作り、数万回も練習しました。不思議なことに、彼は困難に直面するたびに周囲から助けを受けました。

教授が不在の際には後輩教授が診療を手伝ってくれ、彼は卒業基準を満たすことができました。彼は極限の苦痛を甘受し、歯科医師資格証を手に入れた後、「私の努力は1%だけで、残りは周囲の人々が手を握ってくれたおかげ」と話しました。

 

一度塞がれた道でも、もう一度挑戦することは可能だ

復学後、彼の唯一の願いは歯科医になることでした。しかし、その道もまた壁でした。盆唐ソウル大学病院に入る前の1年間、100回以上もの断りを受けました。彼は絶望し、諦めようとも考えました。

しかし、経験は彼に本当の恐怖を教えました。一度塞がれた壁を越えることができれば、もう一度挑戦することは可能だと彼は気づきました。

彼は無条件で挑戦し、実力が彼を支える限り、壁を叩いても正門にはたどり着かなくても、いつか横道が開かれるだろうと信じました。

彼の努力が実を結ぶ

彼は毎朝起きると必ずインターネットで応募し、「院長、副院長、企画室長、センター長、行政室長に変えてほしい」と電話しました。そして、そのメモをずっと残し続けました。

彼の努力が実を結び、合格したのが盆唐ソウル大学病院でした。2005年7月、彼は一度病院に来て患者の診療を行うように言われました。

これはテストでした。病院長、副院長、課長、行政室長が全員集まり、彼の診療と患者への説明を見守りました。そして後で、なぜ彼が合格したのか尋ねると、誰かが「何べんも応募してきて面倒くさいから一度来てみろと言ったのに、よくやったね」と答えました。

 

歯科医への道のり

歯科大学での学びは、彼にとって新たな挑戦でした。身体的な制約にもかかわらず、彼は情熱と献身を持って学び、医学的な知識と技術を習得しました。

彼の周囲の人々は彼の決意と才能に感銘を受け、支えと励ましを惜しみませんでした。そして、彼の努力は実り、彼は歯科医としての道を着実に歩み始めました。

 

器具を手に縛って診療を行う

彼は医師としての初期の日々、器具を手に縛って診療を行っていました。

しかし、傷が多くなったり、患者の目に不快感を与えることもあったため、現在は人差し指にはめる補助器具を使用しています。これには多くの試行錯誤とアップグレードが必要でしたが、現在の形に至りました。

 

侮辱や攻撃にも理解を示す

実際の診療ではさらなる壁が待ち構えていました。あるおじいさんが大声で抗議し、別の男性はドアを蹴って出て行くなど、侮辱や攻撃が絶えませんでした。しかし、彼はそのような人々を恨まず、むしろ理解しました。

自分が同じ立場だったら、同じように感じるだろうと。彼は相手の立場から物事を考える習慣を身につけました。

 

常に真心をもって接する

診療を受けたくない患者に対しても、常に真心をもって接しました。「私は仕事が遅いです。でも実力は最高です。世の中で一番正確で几帳面に見てあげます。」と彼は語りました。その結果、彼の真心は通じ、数か月後には患者がわざわざ彼を訪ねてくるようになりました。

自身の障がいを克服

彼のキャリアの最初の数年間は、特に厳しいものでした。彼の障がいは、彼が患者を診察し、治療を施す際に常に彼の側にありました。しかし、彼はその障がいを克服し、患者たちに最高の治療を提供するために努力しました。彼の情熱とプロフェッショナリズムは、彼の患者たちに深い信頼を与え、彼らの健康と幸福に貢献しました。

 

大学教授としての道を選ぶ

その後、彼は教育への情熱を追求し、大学教授としての道を選びました。彼は自らの経験と知識を次世代の歯科医師に伝えることを目指し、若い学生たちに影響を与えることに努めました。

彼の授業は常に充実しており、彼の熱意と専門知識に触れた学生たちは彼の指導のもとで成長しました。

 

ただ一度きりの人生を熱心に生きる

彼は辛い時には、死んでしまいたいと祈り、その次は歯科医師になるように祈り、職業を持つように祈りました。しかし、今は何の願いも持っていません。ただ一度きりの人生を熱心に生きるだけです。

最初は違い、後悔ばかりしていました。あの日、あのバスに乗らなかったら、プールに行かなかったら。後悔すると人生が過去に進み、今を生きるのではなく、過去に閉じ込められてしまいます。

しかし、彼は事故を悪夢ではなく良い思い出と考えるようになり、自らの人生に感謝するようになりました。彼は障がい者としての苦しみを経験する中で、不満を持つ代わりにどうすればもっと楽になるかを考えるようになりました。

 

熱心に努力すれば周囲の人々が手を差し伸べてくれる

彼は他人の視線を怖がり、隠れる障がい者たちに対して、無条件に社会に出てぶつかってみるようにと言いたいと思っています。

世の中が良くなったと言われていますが、まだまだ差別や無視が日常茶飯事です。そうなればなるほど、障がい者としての恩恵を求めず、他人よりも何倍も努力しなければならないと感じます。

しかし、熱心に努力すれば周囲の人々が手を差し伸べ、共に進もうとすることもあります。

 

自分がしたいことを追求しながら生きることが大切

人生は一度きりです。他人が簡単に否定する言葉に惑わされず、自分がしたいことを追求しながら生きることが大切だと言います。

彼は定年後の人生について考えることなく、一日先も考えません。壁にぶつかった時は、またバカになって頑張れば道が開けることを知っています。

彼の両親は事故後も変わらず、彼の決定を黙々と尊重してくれました。娘が産まれた後、彼は両親の愛情をより深く理解しました。彼は自分の努力と生きる姿を、大きくなる子供に見せたいと思っています。

 

まとめ

過去の出来事にとらわれずに、一歩一歩前進することが重要です。彼は自らの過去を受け入れ、それを成長の機会と捉えることで、強く前向きな人生を歩んでいます。その姿勢は多くの人々に勇気と希望を与え、障がい者が社会で自分らしく生きることの可能性を示しています。

彼の人生は、障がいという壁に阻まれた道のりでしたが、彼はその壁を乗り越え、自らの夢を追求しました。彼の勇気と決意は多くの人々に希望と勇気を与え、彼の物語は世界中で称賛されています。彼の人生は、困難に立ち向かう力と、不可能を可能にする信念の象徴となっています。

 

参考

プールで首を折り「最重症障がい者」になった彼が、歯科医と大学教授になるまでMAG2NEWS

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