2024.05.20

国内最高齢の女性監督が映画を通して伝えたいこと「92歳、原動力は怒り。命を奪い、差別する社会は今も変わっていない」

国内最高齢の女性監督、山田火砂子さんの新作映画『わたしのかあさん―天使の詩―』が公開されました。山田監督は、43歳で再婚した映画監督の夫・山田典吾さんを支えながら映画製作に取り組み、今では自らも監督として社会福祉や女性の地位向上、戦争といったテーマを扱い続けています。

彼女の作品には、「私が当事者である」という強い意識が根底にあります。その情熱は、時には困難に直面しても決して消えることはありません。山田監督の作品は、その芸術性と社会性が見事に融合し、観客に深い感銘を与えることで知られています。

夫婦で映画をつくるという理想に燃えて

夫婦で映画をつくるという理想に燃えていた43歳の映画監督の山田典吾さんと再婚した山田火砂子さん。彼女は典吾さんを「いい加減な男」と振り返ります。彼は医者の息子で、助監督として東宝に入社し、後に芸能部の部長となりましたが、組合運動や共産党活動にのめり込み、会社を辞めて「現代ぷろだくしょん」を設立しました。

 

「お金のことがまったくわかっていなかった」

「坊ちゃん育ちでお金のことがまったくわかっていなかった」と山田さんは述懐します。たとえば、小林多喜二原作の『蟹工船』を製作した際、俳優の山村聰が監督・脚本を務める中で、典吾さんはリアリズムを追求し、実際に工場を造ったということです。「今のお金で何億という額を使っちゃったんじゃないの?」と山田さんは語ります。

 

理想に燃えた時期もあったが現実は厳しかった

最初に典吾さんが近づいてきたとき、山田さんは「女優に復帰できるかも」と期待しましたが、それは見込み違いでした。典吾さんは東宝にいたものの、管理職として現場のことがわかっておらず、結局山田さんが裏方の仕事を担うことになりました。「2人で障がい者映画をつくろう」と理想に燃えた時期もありましたが、現実は厳しかったのです。

 

困難を乗り越えた映画製作の道

困難を乗り越えた映画製作の道に進んだ山田火砂子さんは、43歳のときに映画監督の山田典吾さんと再婚しました。しかし、その道のりは決して平坦ではありませんでした。当時の映画界は完全に男社会であり、山田さんは子どもを家に置いておけないため現場に連れて行くと、「子連れ狼と仕事しなきゃいけないなんて、冗談じゃない」となじられることもありました。社長の妻という立場も何の助けにもならず、甘い世界ではなかったのです。

 

借金取りが押しかけてくることも日常茶飯事

借金取りが押しかけてくることも日常茶飯事で、典吾さんからは「プロデューサーはお金を出すのが仕事だ」と言われることもありました。山田さんは、ありったけのフィルムを買い込み、幼い娘たちのリュックに詰め込んでロケ地まで運んだこともありました。誰もお金の管理ができなかったため、彼女が裏方の仕事を続けざるを得なかったのです。

 

お金の工面と撮影の工夫

例えば、撮影で大量の水が必要なときには、特機車を借りるか、予算を抑えるために消防車を借りることになります。しかし、どちらも大金がかかるため、山田さんは金銭交渉に奔走することになりました。映画『はだしのゲン』を撮ったときには、いかにこの作品が国の未来にとって有意義であるかを大風呂敷を広げて説明し、金銭面で協力してもらうように交渉しました。

 

金銭的な苦労が尽きなかった

企業に出資を頼むと、その企業の意向に従わざるを得なくなるため、独立した映画製作は常に金銭的な苦労が尽きなかったと言います。それでも、山田さんは約束通り、典吾さんが障がい者をテーマにした映画を何本も撮り続けることを支えました。

 

監督への道を歩き始める

山田火砂子さんの夫である映画監督、山田典吾さんが亡くなったのは1998年のことでした。彼の死を前にして、山田さんは娘たちとの日々を描いたアニメ映画を作りたいという思いから、出資者を求めて多くの手紙を書き、多方面に接触を試みていました。しかし、福岡での出資話はうまくいかず、宮崎の高鍋まで足を延ばしたときに、石井十次の銅像を目にすることになりました。

 

日本初の孤児院を岡山に設立した人物、石井十次

石井十次は、福祉の概念がまだ存在しなかった明治時代に、日本初の孤児院を岡山に設立した人物でした。高鍋の地元でもその偉業が忘れられかけていることを知り、山田さんは「なんとかしなければ」と決意しました。

 

映画製作の費用「1億円」

高鍋の人々との会合で、山田さんが映画製作の費用を問われた際、「1億円」と答えると、皆が椅子から転げ落ちるような反応を見せました。「そんな金、作れるわけないでしょう」と言われましたが、山田さんは諦めずに「映画が完成したら観られる製作協力券を1枚1000円で買ってもらい、それを資金にする」と説明しました。するとその場にいた一人の女性が「面白い! あなたを気に入った。やるだけのことをやろう」と応じてくれたのでした。

 

自身の監督人生を本格的に始める

こうして、アニメ映画『エンジェルがとんだ日』と石井十次を描いた『石井のおとうさんありがとう』の製作がスタートしました。典吾さんの死後、会社を閉鎖するかどうかという議論もあったが、山田さんはここから自身の監督人生を本格的に始めることになりました。

 

評価に怯むことなく監督としての道を歩み続ける

『石井のおとうさんありがとう』は、宮崎の新聞社からも取材され、大きな注目を集めました。出演者には松平健さん、永作博美さん、辰巳琢郎さん、竹下景子さんといった一流の俳優陣が名を連ねましたが、記事には「監督の名前は聞いたことがない」と書かれていました。しかし、山田さんはそのような評価に怯むことなく、監督としての道を歩み続けました。

 

内田吐夢監督の息子からの励まし

山田さんの事務所にはかつて、内田吐夢監督の息子が在籍していました。彼が「チャコさん(山田さんの愛称)は映画監督になれるよ。絵が浮かんできて、それが目の前で動いてるんだもんな。典吾さんは絵が止まったまんまなんだよ」と言ってくれたことがありました。典吾さんはその言葉を聞いてそっぽを向いていましたが、山田さんにとってその言葉は大きな励ましとなり、背中を押してくれる存在でした。

 

テーマ選びには情勢が大きく影響

山田監督は、3~4年に1本のペースで映画を撮り続けてきましたが、そのテーマ選びには情勢が大きく影響しています。たとえば、安倍晋三元総理が憲法改正を強く主張した際には、『山本慈昭 望郷の鐘―満蒙開拓団の落日』を制作しました。この映画は、中国残留孤児の帰国に尽力した山本慈昭と、彼を取り巻く歴史を描いた作品です。安倍さんの祖父、岸信介元総理が満蒙開拓団の推進者の一人であることから、国策の負の歴史を直視させる意図がありました。

 

長野県下伊那郡の方々が田畑を担保に入れて資金を集める

制作途中で資金が尽きて撮影が一時中断するという困難もありましたが、山本慈昭の故郷である長野県下伊那郡の方々が、田畑を担保に入れて資金を集め、製作協力券を1万枚も購入してくれました。長野県は全国最多の開拓民を送り出した地域でもあり、協力券が売れて損が出なかったことを聞いたときは本当に嬉しかったと語ります。この映画は県内の映画館で半年も上映され、地元の皆さんからは「ギネスものだねえ」と喜ばれました。

 

「こんなことがあっていいのか」と怒りを覚える

2018年、医学部の不正入試問題が大きな話題になりました。東京医科大学などで女子受験生の合格者数を減らすための得点操作が発覚し、山田監督は「こんなことがあっていいのか」と怒りを覚えました。そこで、近代日本初の女性医師として活躍した荻野吟子を題材に『一粒の麦 荻野吟子の生涯』を制作しました。

これまでに女性の権利獲得や地位向上のために尽力した人物を描いた作品をいくつも制作してきましたが、現在は知的障がい者をテーマにした映画を再び撮りたいと思っています。

一家心中する家族も少なくなかった

時代は少しずつ良くなってきています。福祉も変わってきたと感じています。山田監督の長女が小さかった頃、障がい者の子どもが生まれると経済的に困窮し、周囲から後ろ指を指され、変な勧誘も受けるなど、多くの家族が将来への不安で苦しんでいました。一家心中する家族も少なくありませんでした。

 

当事者家族の声が日本の福祉を前進させた

美濃部亮吉都知事が「死なないでください」というメッセージとともに、障がい者の生活支援や施設づくりを進めていったことは、大きな意味を持ちます。欧米の福祉政策の影響もあったかもしれませんが、自治体や制度を動かし、日本の福祉を前進させたのは、何よりも当事者家族の声があったからだと思います。

私の長女は現在62歳です。彼女は障がい者施設で生活し、障がい年金も受け取っています。そのおかげで、なんとか生活ができています。

 

声を上げなければ世の中は変わらない

しかし、今もなお、政治を担う人たちは庶民の生活を理解していないようですと山田火砂子監督は語ります。子ども一人を育てるのには3000万~4000万円もの費用がかかると言われていますが、若い人たちはその負担を抱え、子どもを産むことにためらいを感じています。一方で、政治家たちはパーティー券で私腹を肥やしたり、不正を行ったりしています。このような状況は紛れもなくおかしいと思います。それに対して声を上げなければ、世の中は変わりません。

 

映画をつくる原動力は「怒り」

山田火砂子監督は「私がこの年齢まで映画をつくる原動力は、「怒り」です。たとえ社会が少しずつ良くなっても、命を奪ったり、傷つけたり、差別したりするような社会は変わっていないのですから。だから、この怒りが続く限り、映画をまた撮らなければいけないのでしょうね。(笑)」と言います。

未来への怒りと情熱

山田火砂子監督がこの年齢まで映画を作り続ける原動力は、「怒り」です。社会が多少良くなったとしても、命を奪ったり、傷つけたり、差別したりする現実は依然として変わっていない。その怒りが続く限り、山田監督は映画を作り続けるでしょう。その情熱と信念が、これからも多くの人々に深い影響を与え続けることでしょう。

 

まとめ

現在92歳の山田監督は、「命を奪い、差別する社会は今も変わっていない」と強く語ります。彼女の怒りと情熱が原動力となり、映画製作に挑み続けています。山田さんの作品は、そのメッセージと情熱がこれからも多くの人々に影響を与え、社会に対する深い問いかけを続けるでしょう。彼女の作品は、その軽やかなタッチと深い洞察力によって、観客に深い感銘を与え、多くの人々の心に響いています。その情熱は、時には困難に直面しても決して消えることはありません。

 

参考

国内最高齢の女性監督・山田火砂子、映画を通して伝えたいこと「92歳、原動力は怒り。命を奪い、差別する社会は今も変わっていない」(婦人公論.jp)#Yahooニュース


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