2024.06.21

生きづらさを克服した「ちょっと変わったアスペルガー医師」KY少年から頼れる精神科医への成長

生きづらさを克服した、元KY少年の精神科医。その方は約束の取材場所に、シックな黒いシャツ姿で現れました。髪を無造作にポニーテールに結んで、長さは腰まで届きます。「精神科のお医者さんです」と言われるよりも、「徹夜明けで、ちょっと不機嫌なミュージシャンです」と言われた方がしっくりくる雰囲気でした。

 

精神科医としての顔

実際、この3月には横浜でバンドの演奏会を開催し、ギターを担当しました。リンパドレナージュのセラピストであり、バンド仲間でもある大村かすみさんによれば、「先生は完璧主義者で、メンバー4人での練習はもちろん、演奏の合わせどころは完璧に合わせたいという気持ちで、2人での練習もしました。ライブ中のMCも面白いですよ」

 

そんな精神科医が、カメラマンからの「白衣を着ていただけますか?」という声に応じて白衣を着ると、表情が一気に和らぎ、悩める患者と真摯に向き合う医師のそれになりました。自身も物心ついた時から研修医になるまでの20年間、アスペルガー症候群特有の「空気が読めない」「言葉の裏が読めない」「計画性がない」「自分の気持ちばかりを優先してしまう」などからくる生きづらさに苦しんできましたが、30代半ばでそれを克服しました。以来、この発達障がいの、良き医師兼理解者として多くの患者さんに向き合っています。

 

『西脇俊二 トンデモ本』

西脇医師を含め、日本ではまだ3人の医師しか行っていないという免疫置換療法に対しても、全国から自己免疫性疾患に苦しむ人々が相談に訪れます。潰瘍性大腸炎や難病指定されているシェーグレン症候群さえも治すという治療法です。そんな頼れる医師でありながら、「女性に憑依した犬神を1週間のヒーリングで祓った」と真顔で言い、超能力者・秋山眞人氏と河口湖でUFOを召喚し、さらには、「スプーン曲げ?曲げたことはありますが、あんまりうまくいきません。柔らかいと完全にイメージできれば曲げられますが、今は少し無理かもしれませんね」と言います。

 

ブラウザの検索窓で『西脇俊二』と調べると、“待ってました”とばかりにサジェストに登場するのは、『西脇俊二 トンデモ本』。登場した著書をクリックし、何冊かのカスタマーレビューを覗いてみると、《トンデモ本に見えてやっぱりトンデモ本》と冷ややかに語る現役医師から、それについて《代替治療を批判するならホントに治った患者の声を聞いてからにしろ!》と怒りの声を上げる人、《素晴らしい精神科医なのにこんな本を出したら誤解される》と心配する患者さんらしき人まで、賛否両論が寄せられています。昔は導師やシャーマンと呼ばれたような人物、そんな印象を持つ西脇医師。

 

「周りの目を気にすることなく行動する」

妻でパーカッション奏者の和嘉子さんは笑いながら語ります。「お医者さんって、昔は導師やシャーマンと呼ばれていたような人。ですから医学はどこか不思議な力とつながっているようにも思えます。スピリチュアル全開でやりすぎると確かに怪しく見えることもありますが(笑)、振り幅に気をつけることも大事だとは思いますが、私はあまり気にしていませんね

 

当の西脇医師は、そんな書評を一向に意に介しません。誰が何を言おうと信じるところを突き進み、訴えたいことを本にします。この医師も抱えるアスペルガー症候群の特徴の一つが、「周りの目を気にすることなく行動する」だからだと思います。今ではアインシュタインやスティーブ・ジョブズ、織田信長もアスペルガーだったと言われています。思えば時代をガラッと変える改革者は、いつもこうした「空気を読まない人たち」だったのかもしれません。

 

“少し変わったデキる人”を目指すべき

西脇医師はこう述べます。「アスペルガーがいなければ、世界は今でも石器時代のままだったでしょう。“木と木をこすり合わせたら燃え出すかも”、“この金属とこの金属を混ぜ合わせたらもっと強い金属になるかも”と、空気を読まず突っ走れた者たちがいればこそ、世界はここまで進化できた。だから私たちアスペルガーの発達障がいを持つ者は、自信を持って“少し変わったデキる人”を目指すべきだと」

母親は典型的なADHD、父親も典型的なアスペルガー障がい

北海道の岩見沢市で姉2人、兄1人の4人きょうだいの末っ子として生まれた西脇医師は、子どものころから“表情が硬く、ちょっと変わった子”だったそうです。「小さいころから人に頭を触られるのが嫌で、理髪店に行かず長い髪を伸ばしていました。ピンクの服が好きで、その色ばかり着ていたため、いつも女の子と間違えられていました。幼稚園は先生や教室の雰囲気が嫌で頑として行かず、登園拒否をしています

 

酒、タバコから食料まで何でも商う、今でいうコンビニのような店を営んでいた両親は、精神医療の専門家である西脇医師によれば“母親は典型的なADHD(注意欠如・多動性障がい)で、父親も典型的なアスペルガー障がい”でした。思ったことを何でも口にする母と、それに対して何も言わないで自分の道を黙々と歩む父。

 

酒、タバコから食料まで何でも商う、今でいうコンビニのような店を営んでいた両親は、精神医療の専門家である西脇医師によれば“母親は典型的なADHD(注意欠如・多動性障害)で、父親も典型的なアスペルガー障害”でした。思ったことを何でも口にする母と、それに対して何も言わないで自分の道を黙々と歩む父。

 

「私は毎朝、母親の怒声で目を覚ましていました」

小学校に上がる前には、本音を素直に言ってしまう母から唐突に“本当はお前は堕ろすべきだった”と言われたことがあると述べました。「“でも、なぜ産んだの?”と尋ねたら、“占いで、私(母親)を助けるようになるから産んだほうがいいと言われた”と。まぁ、でも私は生まれてくることができたので、私は幸運だったのかもしれませんね(笑)」出生の際にも死に直面しており、それからも幾度となく死と向き合い、そのたびに逆境から生還してきた経験が、おそらく医学界で最もスピリチュアルな西脇医師の考え方の背景となっているのかもしれません。

 

「結婚するつもりもないのに何で付き合うの?」と言われたことがあります。小さい頃から一度思い込むと頑固で、小学校や後に進学した光陵中学でも成績は優秀でした。ただし、私には「計画性」がありませんでした。宿題はいつも朝になってから片付け、試験は一晩勉強するのが常でした。

 

一度見たものを写真のように覚える能力

映画『レインマン』で描かれたように、一度見たものを写真のように覚える能力がありました。大学1年生まではそれで勉強していましたが、お酒を飲みすぎたことで脳が損傷し、その能力は失われていきました。妻である和嘉子さんが、私の子ども時代のエピソードをこう話します。「高校生の頃、足が速くて友達がバスに乗っている間にも先に目的地に到着し、“超人”と呼ばれていたんですよ(笑)」

 

足の速い一夜漬けの名人は、小学校高学年から中学にかけてラジコン模型に夢中でした。「そのうえでエンジンがついている、子供には高価な約10万円の大型セットを購入しました。実は親が好きだったんですが、自分で買うと母に怒られるので、私が買ったことにしました。夜、私を連れてスナックに行ったり、模型屋で買い物をした後、トラックの後ろに隠して家に持ち帰りました。母に見つかったら怒られるので、隠して部屋に運びました(笑)」

 

「社会」に適応することが求められるようになった

それで手に入れた複雑なラジコン模型は、夜通し作業をし、3か月かけて完成させました。嫌いなことでも一晩勉強することはありましたが、好きなことには本気で打ち込むことができました。ここまでの話ならば、「優秀な小学生の逸話」として終わるはずでした。しかし、大人の社会においては、中学生としてはそれでは通用しないことがわかってきました。成長に伴い、学校という「社会」に適応することが求められるようになったのです。

 

友人と呼べる人がいない

友人と呼べる者がいないことが特徴です。ある年のバレンタインデーの前日、特定の女子が、成績優秀で足が速く、バスケが得意な私にチョコを渡すことを決意しました。その女子は恥ずかしそうに言いました。「西脇くん、明日の朝、少し早く来てくれる?」「私はいつもギリギリに登校していたので、“なんで私がそんな早くに呼び出されなきゃいけないんだ?”と思いました。翌日、女子の要求を忘れて普通に登校しました。すると、その女子は泣いていました。他の女子たちからも「西脇くん、ひどい!」と非難されましたが、なんで自分が怒られるのかわからなかったんです」

 

小さい頃から目立つ子で、小学校では児童会長、中学校でも学級委員を務めていましたが、友達と呼べる人はいませんでした。深く話せる親友や、一緒に笑い合うような友人はいませんでした。そして、この年齢になると、異性に関する話題にもついていけませんでした。同級生たちが「あの子かわいい」「誰が誰と付き合っているか」という話題には興味がありませんでした。昼休みにはそのような話題で盛り上がる友人たちを尻目に、机の上でぼんやりしていました。そして、その状況について何の不満も抱かなかったのです。「もしかして私は他の人と違うのかもしれない」という疑問を、幼い頃から感じ始めました。

 

大学入試を途中でやめたが「医学部を再受験する」と宣言

大学入試は途中でやめてしまい、予備校も2日で退学してしまいました。それでも「ちょっと付き合いづらいけど、成績は抜群の西脇くん」は、その後北海道岩見沢東高校に進学しました。当時の将来の夢は、自衛隊のパイロットか建築家になることでした。「でも、自衛隊に入っても地上勤務になる可能性があるし、建築家になっても自分の思うように建物を建てることはできない。」そこで医者になろうと決意しました。

 

北海道大学の理学部に願書を出したのは、なぜか。親には「医学部を再受験する」と宣言して許可を得て受験したのです。「北大理学部なら、受かると思います。でも受かってしまったら、もう勉強する気がなくなるかもしれない。だから試験中に会場を抜け出して、一緒に受験をやめた仲間とススキノに飲みに行っちゃった(笑)。」

 

トルエン中毒事故が発生

入試を放棄して、30万円を支払って入学した札幌予備校医学部進学コースも、わずか1日で通わなくなってしまいました。「最初の日、現代国語を教えていた名物のおじいちゃん先生がいました。「皆さん、(浪人してしまって)残念です。でも1年かけて頑張れば大丈夫! 1年間生き延びるだけです。」」その言葉を聞いて「あ、そうだ」と気楽になりました。そして2日目から行かなくなってしまった。

 

それ以降、札幌の下宿で仲間とばかり遊び、部屋は悪友たちがたむろするアジトのようになりました。生活費は、道路建設の現場で働いて手に入れました。「朝4時に弁当を作って6時まで事務所に行って現場へ。帰ってきたらお風呂に入ってホルモンを食べて寝る。そんな毎日が続きました。」しかし、そこでも死神の鎌に触れることになりました。地下鉄工事現場でバイト中の北大生と作業員が亡くなりました。トルエン中毒事故が発生したのです。

 

すさまじい集中力で受験勉強に打ち込む

「僕が働いていたのもその現場でした。トルエン中毒が起きたときには、作業が終わって帰ってきていました。もしもずっといたら、僕も死んでいたかもしれません。」10月、その生活から転機がやってきました。地下鉄の工事現場で働いていると、共に医学部を目指していた友人の母親が通りかかりました。友人とは子どもの頃からの付き合いで、その母親も自分の顔をよく知っていました。それなのに気づかない。「俺、ヤバい方向に進んでいるなと気がついて。親に電話して、アパートを借りて下宿を出ました。知らせたら酒盛りが始まって、勉強ができなくなるから。」

 

これが10月でした。共通一次試験まで残された時間はわずか3か月でしたが、アスペルガーの本領を発揮しました。すさまじい集中力で受験勉強に打ち込みました。目指したのは、弘前大学医学部合格。同級生から詳細な情報を得て、「二次試験の科目が少ない医学部」を選びました。筑波大、金沢大、そして弘前大学の医学部が挙がった中で、弘前大学の試験が英語、数学、面接のみだと知ったからです。

 

試験に15分遅刻したが無事に合格

「それで3か月90日の勉強計画を立てました。それ以降、寝る以外はずっと勉強。口を開く機会といえば、コンビニのお姉さんに“お弁当、温めますか?”と聞かれたときに“お願いします”と答えるぐらい。」そのようにして試験の日がやってきましたが、アスペルガー特有の「忘れ物が多い」、「他のことに気を取られるとそちらに行く」が出てしまい、大失敗をしてしまいました。

「二次試験の日に弘前まで行って、バスに乗って試験会場に向かったら、見覚えのある風景がちょっと違う。運転手に尋ねたら“全然違う! 医学部の試験会場は向こうだ!”焦って降りて、もう1人同じようなのが出てきて2人で走りました(笑)。」試験に15分遅刻しましたが、なんとか受験させてもらい、無事合格しました。やっと念願の医学生活が始まりました。

 

「君はネクタイが趣味なのかね?」

かつて浪人生だったころの下宿部屋はアジト状態だった。医大生となってからも、それは変わらず、仲間と酒を酌み交わせば、あっという間にウイスキー2本が空になる。自堕落であっても楽しい、若者の特権のような毎日。そんな生活を送りながらも、心は常にどこかしっくりときていない。「楽しいけど、時折人と会うのが嫌になってずっと部屋にこもってしまう。その状態が定期的にくるんです。人に疲れるというか、人間関係がしっくりこないというか

 

“なぜ自分には仲間はいても友人と呼べる者がいないのか?”小学生のころからずっとそう感じていたという西脇医師。とはいえ、医学部ではそれに苦しむことはなかった。「医学部って、僕と同じ感じの人が多いんです。記憶力がよくて入ってくる人が多いから。今から思うと、アスペルガーっぽい人が多い

 

ところが研修医として社会の一線に立つようになると、どうしても「空気が読めない」行動が目立ち始めてしまいました。東京の某病院で精神科の研修医として研鑽を積んでいたある日のこと、先輩のベテラン医師からこう言われました。「君はネクタイが趣味なのかね?」

 

アスペルガー特有の「言葉の裏が読めない」

某病院では男性医師は白衣の下にはネクタイをするのが決まりです。だが“趣味=サーフィン”だった西脇医師、ネクタイといえばド派手なハイビスカス柄しか持っていない。先輩医師は“もっと無難な色柄のネクタイにしなさい”という意味を込め、そのようにやんわりと注意したのですが。「それなのに僕は、“いいえ、違います”と、真正直に。先輩の言葉に含まれた嫌みや忠告に気づけなかった」アスペルガー特有の「言葉の裏が読めない」が出てしまいました。

 

「計画性ゼロ」

忘年会の幹事を務めた際には、楽しんでもらいたい一心で2次会まで豪華な料理をフルラインナップ。病院スタッフがプールしたお金をすべて使い果たした。ここでも「計画性ゼロ」が出てしまった。さすがにどうにかせねばと、2週間の休みをとって「内観」という自己洞察法も試し、催眠療法も試した。だが“自分はどこか他の人とは違っている”という、小学生以来の違和感解消までには至りません。そんな西脇医師が自分の障がいに気づいたのは、発達障がい児の施設である国立秩父学園に勤務、自閉症児と向き合ったのがきっかけでした。

 

「自閉症児と接したことで、友達ができないのも違和感も、アスペルガーという自閉症だったからだとわかりました。わかったとたん、ふっと心が軽くなったんです原因がわかれば、対処はできる。性格でなく脳機能の偏りからのものとわかれば、その偏りを正すことだってできるでしょう。西脇医師は人の話は最後まで聞くように心がけ、しゃべりたくなる衝動が10回起きたら1回だけはしゃべるようにするようにした。すると不思議なことに、言葉の裏にあるものが徐々にわかるようになってきました。

 

アスペルガーによる生きづらさは克服できる

計画立てなど、苦手な行動は人に助けてもらうようにしました。するとここでもミスがなくなり、さらには助けを求めた相手の自己重要感が高まって人間関係が改善されました。さらには笑顔をつくるべく鏡の前で練習したら、相手も笑顔を返してくれることが増えてきました。子どものころから感じていた周囲との違和感が薄れていき、周囲の人々に、笑顔を見ることが多くなっていった。人間関係が改善され、以前のような生きづらさを感じることが、少しずつ、少しずつ、少なくなっていった。妻の和嘉子さんが現在の西脇医師を評してこう言っている。

 

「私が仕事で帰りが遅くなると夕食の準備をしてくれたり、疲れて起きられないときにはゴミ出しをしてくれたり。そのへんの距離感の取り方がとても心地いい。いい夫ですよ」前出・大村さんも、「先生って、コミュ力がすごい。セミナーにご一緒させていただくことも多いのですが、“もう何回もいらしているんですか?”と聞くと“まだ2回目”。ホントにアスペルガーなの?と思うほどです」アスペルガーによる生きづらさは克服できる。そのよき見本こそが、この人なのです。

 

「それでも今でも結構アスペやらかしますよ」

自閉症施設での衝撃的な自覚から30余年。アスペルガー症候群の生きづらさを克服した当事者が書くアスペルガー関連本はこの病気に悩む人たちから絶大な信頼を受け、関連書籍は10冊を超えた。著書は合計30冊、売上総数40万部を超えています。コミックエッセイ『アスペルガー症候群との上手なつきあい方入門』も好調で、テレビドラマでの監修依頼は引きも切らない。有名なところでは『ATARU』『グッド・ドクター』『ドラゴン桜』などが西脇医師の監修によるものです。

 

精神医療では、まぎれもなく大家です。それなのに、超能力者・秋山眞人氏との共著で『波動を上げる生き方』を上梓し《ラッキーバイブス(よい波動)は存在し、そこに波動を合わせることができれば運命も開かれる》と主張。世の常識ある人々の目を白黒させました。自分の信じるところを追究し、とことんのめり込むアスペルガーの素晴らしい特性は、今も決して失われてはいません。もちろん“ちょっと不思議”な部分も健在です。

 

偏見に臆することなく新たな治療法へと向かわせる

“ああ言えばこう言う”というところは今もありますね。(西脇医師は)疲れるとソファで寝ちゃうことが多くて。“ソファだとまっすぐ寝れないから身体に良くないよ”と言うと“昔の埋葬は屈葬だったんだよ”だって(笑)」(前出・和嘉子さん)自分を縛る枠から抜け出したいと、自己啓発セミナーに参加したことも。

 

自分を変えたいという、おそらくアスペルガーであったからこその苦悩からきている衝動が、この医師をさまざまなことに挑戦させています。そしてその衝動がまた、偏見に臆することなく新たな治療法へと向かわせます。あの免疫置換療法も学会からは冷たく無視されたものの、難病に苦しむ人たちからは、熱狂的に歓迎されることとなりました。超高濃度ビタミンC点滴と断糖を組み合わせたがん治療は、当初の“トンデモ本”との批判をよそに、今では“良識ある医者”の間でさえ流行しつつあります。

 

自分を実験台にして試す

学会でいいと聞くと、まず自分を実験台にして試す。その実験で得たいいところだけを患者さんにフィードバックする。だから信頼できるんですよね」と大村さん。思えば、天然痘を予防する種痘を発明したジェンナーも、当時の学会、良識ある人たちからは“トンデモ説”として厳しく非難されたのです。「もしかしたら先生が医学の常識をひっくり返し、数年後には先生の治療法や考え方が常識になっているかもしれませんね」

 

そう伝えると、西脇医師が半分本気、半分冗談のようにこう呟きました。「そうならざるを得ないでしょう。だって患者さんが治ってしまって治療に来なくていい状態になっているんですから。実は僕って、スゴい医者なんですよ─

まとめ

西脇医師の人生は、アスペルガー症候群という特異な背景を持ちながらも、精神科医としてのキャリアを輝かせ、患者たちに希望と理解を提供してきました。彼の独自の視点と情熱は、その豊かな経験と知識から生まれており、患者との対話や治療において常に深く対象に向き合ってきました。彼のこれまでの成果と、これからの医療界への貢献は、彼が積み重ねてきた信念と覚悟の賜物です。

 

参考

「僕はちょっと変わったアスペルガー医師」生きづらさを克服した、元KY少年の精神科医(週刊女性PRIME) #Yahooニュース

 


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